表紙記事 https://newspicks.com/news/2153089/body/
日立製作所といえば、日本の代表的なメーカーで、巨大組織で関連会社が無数にあって、人事制度が厳しく、公務員制度に近い硬直的な
組織で、有名な会社でした。私も友人が何人かいて、こういってました。
「入社3年目までの成績で、配属先が決定されて、一生がきまる。」
「日立の研究所に配属されるには、博士でないとダメだ」
「本人の業績がわるいとすぐ子会社にとばされる」
1970年代後半の学生時代に2日かけて、日立製作所に見学にいったのですが、
OBがたくさんいて、つらそうにしていて、これは、はいりたくないなと思いました。
●大企業で信州MAKERSに頻繁に来訪してくるのは日立製作所様です。
どうやら社内のリンクに登録されているようで、日立から頻繁に来訪があります。
閲覧される記事は、IOT、DIYをどのように取り組んでいるかの活動を観察したい見方で、技術内容を知りたいわけではありません。
私の主張コト作りモノ作りが気に入っていただいて、社内リンクに登録されているのではないかと自画自賛してます。
=>そもそも大企業の研究開発部門に40年務めていた私が60歳で退職して、趣味の技術ブログを立ち上げたのは、企業内での活動と
ほぼ同じレベルの活動が自宅でも出来る時代になってきたからです。3DCAD、シミュレーション、マイコン開発環境、プログラム環境など
と電子パーツがDIGIKEYなど米国から最先端のパーツが送料無料で購入できるので、北米の個人ベンチャーと同じ環境で勝負できると見たからです。現在RTKでのスキー計測技術では世界のNo1ニッチトップにたってます。
●8月8日のYahoo記事で日立の改革について記事があった
2009年から就任した川村社長が大改革を実現したそうです。コト作りを重要視した改革だそうです。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/2b821e2661c66d53567150fca48ed5128e003c08
【絶好調・日立製作所の研究】「よくここまで変われたなと思う」元社員が語る“縦割り”との決別 トップの先見の明と今後の課題
かつて“日の丸家電”の代表格だった日立製作所は、柔軟かつ大胆に新規事業に取り組み、いまや従来のイメージとは異なるグローバルな企業に変貌を遂げている。転換を経て成長曲線を描くように見える日立の姿を、元社員はどう見ているのか。 【図解】「3分野」で稼ぐ日立製作所の最新「事業構造」
2003年まで日立で半導体部門に従事したジャーナリストで技術経営コンサルタントの湯之上隆氏は「私がいた頃は硬直した組織だった」と明かす。 「各社員のプライドもあって縦割りの弊害が大きく、中央研究所、デバイス開発センター、事業部の三つがあった半導体セクションは、競争はしても協力することは一切なかった。それが今や横串を通した組織としてルマーダ(DX支援事業)に取り組んでいる。よくぞここまで変われたなと思います」 1973年に日立に入社し、日立インダストリアルプロダクツ・モノづくり統括本部部長などを務めた後、2022年に70歳を迎えるまで雇用延長で働いた福富昇氏(72)は「会社員人生の終盤は、なかにいても『組織の姿をよく変えるなぁ』と驚いていたほどです」と振り返る。 退社後は中小企業などのコンサルティングに携わる福富氏だが、2008年のリーマンショックで大赤字に転落した直後は、まだ社内の危機感は薄かったと述懐する。 「どこかで『他部署や子会社が何とかしてくれる』という妙な安心感が蔓延していたと思います。その時点ではまだ、やることも判断もとにかく遅い会社だった」
組織風土が一変“モノづくりからコトづくりに”
ただ、その後はトップダウンの改革により、組織風土が一変したという。 「2009年3月に川村隆社長が就任して以降、“モノづくりからコトづくりに”と言われ続けた。その頃よく比較していたのが米GE(ゼネラル・エレクトリック)。『GEに比べると劣っているから頑張っていこう』と言われました。社会インフラやIT分野にシフトするため、それに向かない日立化成や日立金属といった系列会社は利益が出ていても独立させて、未来の事業に協力できるところは逆に買収した。 スイスのABBの送配電部門を巨額買収した時は社内でも驚きの声があがっていました。これにより日立は世界一の送配電事業者になったわけですから、トップの先見の明だと思います」(同前) 連結従業員数26万人(2024年3月末)という巨大企業グループであるがゆえの判断の遅さや他部署任せの風土も改革の対象となり、「社内では川村さんが最終的な意思決定の責任を持つ『ラストマンになる覚悟を持て』とよく言っていて、東原敏昭会長からは“一人称で考えろ”と繰り返し指導を受けた」(同前)という。 10年越しの経営改革が奏功しつつある今、福富氏は「あえて挙げるなら」と前置きしたうえで今後の課題についてこう話す。 「1990年代までは社長が約10年変わらない“ブレない体制”が日立の特徴でした。それが、危機を経て再編が進んだこの10年ほどは、数年単位でトップが交代しています。 今のところ社長が交代しても改革のスピードや意思は継続されているように見えますが、そうした経営トップの人材が今後も出てくるかどうかは死活的に重要です。トップダウンで改革を進めてきただけに、大企業病を“再発”させないための舵取りが求められます」 大胆な転換でV字復活を果たした日立は、“変わり続ける”ことでさらなる未来を切り拓けるか。 ※週刊ポスト2024年9月13日号
●川村隆社長の経歴 WIKIコピー
感想:入社1962年東大工学部電気出身で原子力発電の専門、1991年工場長に就任(日立の工場長はエリートで役員経営者になる人)
ですが、1999年に副社長までのぼりつめるが2003年に退任した。2009年のリーマンショックで呼び戻されて、社長就任から
組織改革に取り組んで、現在の大変革した日立を実現した。凄い人です。多分、才能が傑出しているので平時には、周りから邪魔者扱いされて
いて、いざ、会社が危機となるとその才能を頼まれるような天才肌の方ではないかと思います。情より理屈で行く人です。
日経の川村隆氏の人柄記事:https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00119/00110/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E9%9A%86
川村隆
川村 隆(かわむら たかし、1939年12月19日 – )は、日本の実業家。元東京電力ホールディングス取締役会長[1]。元みずほフィナンシャルグループ社外取締役[2]。元日立製作所取締役・代表執行役会長兼執行役社長、同相談役[3]。元日本経済団体連合会(経団連)副会長[3]。
来歴
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北海道札幌西高等学校を経て、1962年3月東京大学工学部電気工学科卒業[9]。在学中は原子力発電の研究に従事した[10]。1962年4月、日立製作所入社[11]。
日立では電力設計部に所属[12]。1972年に主任技師となり、関西電力姫路第二発電所の火力6号機(略称「姫6」)[11]、中国電力島根原子力発電所1号機などの開発に従事[13]。東京本社火力技術本部を経て[13]、1991年に日立工場副工場長となり、翌年工場長に就任[14]。1995年に常務取締役(営業担当)、1999年副社長[15]。2003年に退任し、日立ソフトウェアエンジニアリング・日立プラントテクノロジー・日立マクセルの各会長を務める[16]。
2004年電気学会会長[17]。2009年3月、前年のリーマン・ショック等の影響で、大幅な赤字を出していた本社の経営再建のため、中西宏明、八丁地隆とともに子会社から呼び戻されるという異例の人事が断行され[18][19][20]、代表執行役会長兼執行役社長に就任[20][21]。
社長就任後は、日立情報システムズなど上場子会社の完全子会社化等の経営効率化[20][22]、テレビ事業撤退等の不採算部門整理[20][23]、公募増資の実施による自己資本比率の回復など[20][24]、経営再建に務める[20]。2010年会長職に専念し、同年火力発電設備事業分野における三菱重工業との統合を決定[25]。これらの改革が功を奏し、2012年3月期には、純利益が過去最高を計上するなど[20]、約3年で経営は立ち直り[20][26]、「V字回復」と呼ばれた[6][20]。2013年に会長を退き、2016年6月まで相談役を務めた[26]。
この間、日本経済団体連合会(経団連)副会長も務め[5][6]、2014年に退任した米倉弘昌会長の後任の最有力候補とも言われたが[5]、就任を固辞し[6]、自身も米倉と共に退任した[6]。
2017年3月、東京電力ホールディングス会長の就任が発表される[27]。川村の起用については、東電の株の大半を保有する政府の強い意向があったとされ[7]、日立の経営を立て直した手腕を生かし、福島第一原発の廃炉や賠償費用の確保に向けた改革の着実な実行を図る狙いがあると見られる[7][27][28]。同年6月23日の東電定時株主総会において取締役(社外取締役)に選任され、総会後の取締役会において取締役会長に選定された。
2019年9月春光会会長及び春光懇話会会長に就任[29]。2020年4月、東京電力ホールディングス会長退任が発表[30]。同年6月末の株主総会で決定された。
人物・エピソード
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- 川村は2015年5月9日付の『日本経済新聞』紙上で、「チェルノブイリ原子力発電所事故や福島第一原子力発電所事故が起きた現在の時点でも、私は日本は基幹エネルギーの一つを原子力に頼らざるをえない国であると考えている」と述べている[31]。この発言は、「エネルギーは水や食糧と並ぶ国家存立の基盤であり、50年後、70年後に化石燃料が枯渇したときに頼りになるのは原子力である」という信念に基づいており[31]、東電会長就任後の2017年7月の同紙のインタビューにおいても、変わらぬ見解を示している[32]。
- 日立入社後は長年電力設計部に所属し、電力会社向けの発電機の開発等に従事した。発電機の熱損失を最小化するための、大型コンピュータを使っての3次元の電磁界解析等、学術的な性格の強い仕事も多く、これらの研究成果を英語の論文にまとめ、アメリカ電気電子学会(IEEE)の発行する有名ジャーナルに発表したこともある。この際アメリカ・ニューヨーク州アルバニーで講演し、世界各地から集まった技術者と歓談したことが思い出深いという[12]。
- 日立製作所副社長在任中の1999年7月23日、北海道出張のため羽田発新千歳行きの全日空61便に搭乗した際、ハイジャックに遭遇した(全日空61便ハイジャック事件)。飛行機マニアの犯人に機長が殺害された後、犯人の未熟な操縦で墜落の可能性が高くなり、「もうだめだ」と覚悟を決めた時、偶然乗り合わせた非番のパイロットらの機転により、無事着陸することが出来た。この経験を通じて、人はいつ死ぬか分からないのだから、毎日を大切に生きなければと自覚するようになり、残りの人生をどう生きるか真剣に考えるようになったという。また、「ラストマン」(最終責任者)の意識を改めて強く持つようになり、自分は果たして墜落の危機を救ったパイロットのように、「ラストマン」の役割を果たす機会があるのだろうか、と思ったと同時に、会社は彼のような「ラストマン」を育てておかなければならない、とも思ったという[6][33]。当時のハイジャックへの基本の対応マニュアルにある「犯人の言うことを聞く」に違反していた、パイロットらの機転によって助かったことから、緊急事態では自分で考え自分の責任で行動する「ラストマン(最終責任者)」の意識を強く持つようになった
- 日立のトップとして思い切った改革を次々と行い、会社を業績回復に導いたが、シーメンスなどの国外のライバル企業に比べるとまだ十分なレベルとは言えず、より一層の改革が必要だという。「熾烈な競争に勝ち抜くための変革を遂行する挑戦はまだ続いている」と、次世代への期待も込めて語る[34]。
著書
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